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世界の究極理論は存在するか 5仮想実在

世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間 世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間
デイヴィッド ドイッチュ (1999/10)
朝日新聞社
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この章では、仮想実在という思考実験を通して、私たちの知や認識の本質を考えようとしています。

飛行シミュレーター、プラネタリウム、ハイファイオーディオなどユーザーに特定の感覚を作り出せる装置を”イメージ生成装置”または”仮想実在生成装置”とよぶ。この装置はユーザーの外部にある何らかの環境(実際の飛行機、夜空、演奏)をユーザーに体験させる。この装置によって引き起こされる体験を”外的体験”と名付ける。一方、外的体験と対比させて、驚きとか緊張とかを内的体験と呼ぶことにする。仮想実在生成装置によって特定の内的体験を与えるようにすることはできない。2回続けて同じイメージを提示したとき、必ず同じ外的体験を与えるが、内的体験は1回目と2回目で異なる可能性があるからだ。内的体験の生成装置は将来的に可能かもしれないが、正常な心の機能に影響を与えるので仮想実在生成装置には含めないことにする。

仮想実在生成装置に対して、4章で見た独我論に対する反駁方法”蹴り返し”が無効になるのだろうか。そうはならない。仮想実在を生成したコンピュータは物理的実在であり、このコンピュータが蹴り返す。独我論の議論に実際のものか仮想的なものかは関係ない。結局、実在的なものをなんでも簡単に確認できるわけではないということである。

仮想実在生成装置は、究極的には、脳の信号を読み取る装置、脳へ信号を送る装置、そして、それらを制御するコンピュータのセットと考えることができる。脳の信号の解読は難しいかもしれないが、一度解決すれば、仮想実在生成装置の焦点は、ユーザーにさまざまな環境を提示するためにどのようにプログラミングするかという問題になる。言い換えれば、どんな環境なら明確に指定できるかという問題になる。

結局、われわれが体験するどのような外的体験も直接的ではない。外的体験はすべて仮想実在の体験である。そして、仮想実在が可能であるということは、あらゆる学問や想像、芸術、虚構の基礎となっている。


目次

1 万物の理論
2 影の宇宙
3 問題と解決
4 実在の基準
5 仮想実在
6 計算の不偏性と限界
7 正しさの根拠をめぐる対話
8 生命の宇宙的意義
9 量子コンピュータ
10 数学の本性
11 量子的な時間
12 タイムとラベル
13 四本の撚り糸
14 宇宙の終わり

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2007.02.21 | | Comments(0) | Trackback(0) | 世界の究極理論は存在するか

世界の究極理論は存在するか 4実在の基準

4章では、よい説明とはどのようなものか、そして、実在の基準とは何か、について書かれています。
まず、太陽系の配置についてのガリレオと異端審問所の論争を例にとり、科学におけるよい説明とはなにかということを説明しています。

ガリレオは太陽を中心に地球を含む惑星が運動していると考えた。一方、異端審問所は地球が中心であるとした。ガリレオは、惑星が単純な円(楕円)を描いて太陽の周りを回っていると説明した。異端審問所は、惑星が地球の周りを本当に複雑な曲線を描いて運動していると説明した。しかし、太陽中心説を理解してはじめて異端審問所の説が理解できる。その逆ではない。必要以上に説明を込み入らせてはならない。
独我論も同様の構造を持っている。独我論は論理的には矛盾していないが、実在に対する説明を極端に込み入ったものにする。

実在の基準はなにか。あるものが実在であるのか、それとも虚構なのか、その判断基準はいったい何なのか。例えば、目の前にある大きな石が、自分の想像の産物でないとどのようにしたら反駁できるのだろうか。答えは、ただ蹴飛ばしてみればよい、である。結果、自分の足が蹴り返される。この現象を説明する際に、石を実体でないと見なすと説明が複雑になる。それならば石を実体と見なした方がよい。

以下抜粋:

「もっとも単純な説明にしたがったときに、ある実体が複雑で自立的であるならば、その実体は実在的である」

「自然からは理論のいかなる断片も文字通り「読み取る」ことは不可能である」

「必要なのは、正しい方法で一般性のある問題と有望な理論を心に抱いてー見ることだけである」


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2007.01.27 | | Comments(0) | Trackback(0) | 世界の究極理論は存在するか

世界の究極理論は存在するか 3問題と解決

3章では、1章で述べられていた科学とは良い説明を見いだすことであるということをふまえ、それに至る過程について書かれています。つまり、科学的な問題があってそれを解決する過程についてです。

まず、科学に対する帰納主義的な考えに対して批判を行っています。

科学的な知識は基本的に観測に基づいて得られる。とはいえ、観測は常に不完全だ。だから科学的推論は観測から論理的演算によって得られるものではない。その代わり、科学的推論を正当化する形式として帰納というものがある。帰納主義的理論は、観測を外挿または一般化して理論を作り、さらなる観測によって理論を正当化する。
しかし、この考え方は根本的に間違っている。最悪の間違いは、一般化された予測は新しい理論に等しいということである。さらに、観測を帰納的に外挿することで新しい理論を形成できるというのも間違いである。観測が予め説明的な枠組みのなかに置かれている場合にはじめて外挿が可能になるのだ。

そして、帰納に代わる説明を中心にすえた科学的発見の道筋について述べられています。

科学的推論と発見は、観測からはじまるのではなく常に問題からはじまるものだ。ここでいう問題とは、不適切で改良を試みるに値するように見える一組のアイデアのことである。問題があれば、憶測により新しい理論の草案が提案される。その草案は実験テストを含む批判にさらされる。ここで向けられる批判の大部分は、理論の予測に対してではなく、理論の根底にある説明に向けられる。もし既存の理論よりも新しい理論の方が支持されれば、新しい理論に置き換えられる。そして、これはまた新しい問題と解決過程の出発点となる。科学を行う目的は、永久に真だと見なされる理論を見いだすことではなく、今手に入る最良の理論を見いだすことなのである。


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2006.12.09 | | Comments(0) | Trackback(0) | 世界の究極理論は存在するか

世界の究極理論は存在するか 1万物の理論

「これほど知的な刺激を与えてくれた本は、ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』以来だ」という書評に惹かれて購入しましたが、最近まで本棚の奥に封印したままになっていました。日本語訳の書名は仰々しいものですが、オリジナルのタイトルは "The Fabric of Reality" (実在の織物)です。本書のテーマは、実在の織物が四つの撚り糸(量子物理学、認識論、計算理論、進化論)によって構成されている、ということのようです。

1章「万物の理論」の内容は概ね次のとおりです。

より深い理解、一般化によって、ひとりの人が理解されていることすべてを理解できるようになる、そのような理論が真の意味での万物の理論である。理解するということは説明できるということであり、科学に対する他の見解(道具主義や還元主義など)は間違っている。道具主義は、理論とは説明するための道具にすぎない、予測さえできればよいと主張する。しかし、予測は我々に理解を提供してはくれない。還元主義はより低レベルの構成要素に分解して説明する。実際、高レベルのものを低レベルのものに分解して記述することは可能だ。例えば、思考や生命といったものを分子のレベルで記述することはおそらく可能だろう。しかし、そのような複雑な記述は結局何も説明していない。そうではなく、どのレベルにも説明があって、低レベルの複雑な振る舞いが高レベルではある程度単純に理解できるということもある。これを創発性とよぶ。しかし、創発的特徴よりも初期状態のほうが重要であるという主義もある。これは還元主義を押し進めていった場合に至る考えであり間違いである。

最後に、四つの主題、量子物理学、認識論、計算理論、進化論の基礎原理の間にたいへん深い連関が発見されてきたので、他の3つの主題を理解することなしに、どれかひとつの主題をもっともよく理解できるようになるということはない、とありました。



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2006.09.21 | | Comments(2) | Trackback(0) | 世界の究極理論は存在するか

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