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マインド-心の哲学 目次

一章 心の哲学が抱える十ニの問題
二章 唯物論への転回
三章 唯物論への反論
四章 意識1 意識と心身問題
五章 意識2 意識の構造と神経生物学
六章 志向性
七章 心的因果
八章 自由意志
九章 無意識と行動
十章 知覚
十一章 自己

マインド―心の哲学 マインド―心の哲学
ジョン・R. サール (2006/03)
朝日出版社
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2006.08.30 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

マインド-心の哲学11章

11章でマインドは終わりです。テーマは「自己」です。

二元論に関係なく、重大な問題が残っている。それは「私を私たらしめるような、私にかんする事実とはなにか?」である。これはヒュームによって決着がつけられたと考えられている。その答えはこうだ。私をかたちづくるような何かを探してもそこに見いだされるのは経験群だけ、経験のほかになにか(自己)があるわけではない。

自己に関する三つの問題
1 人格の同一性
ある人が生涯をつうじてさまざまな変化を経るにもかかわらず、なお同じその人でありつづけるのは、どのような事実によるのか?

2 心理学的性質が帰属する主体
思考や感覚、それらが生じる身体の他に、さらにそれらの出来事の主体となるようななにか(私)を仮定する必要があるのだろうか?ヒュームはそれ以外に仮定する必要はないという。

3 私を私にするもの
この問いは、私の人格をつくりあげる社会的、心理的、文化的、生物学的な力に関わる問題と考えられている。

人格の同一性に固有の問題
「テセウスの船」という問いがある。これは次のような問いだ。一隻の木造船がある。時が経つにつれて、その船を構成する木材が徐々に張り替えられていく。もとの材料がすべて張り替えられても同じ船だと言えるのだろうか?
さらに、もとの船を構成する材料で同じ船をもう一隻作ったとき、どちらがオリジナルの船といえるのだろうか?
サールによれば、どちらの船をオリジナルと呼ぶかは、私たち次第だそうだ。

人格の同一性の基準
1 身体の時間的身体的な連続性
2 身体構造の相対的な時間的連続性
3 記憶
「記憶によって結びつけられた私の意識状態のシーケンスは、自分が特定の個人として存在しているという私の感覚にとって本質的なものだ」
4 人格の連続性

人格の同一性と記憶
一人称的な視点から見ると、「私は時間を通じてまさに同一の人物だ」という私の感覚は、その大部分が、過去の人生で意識に生じた出来事について、意識的な記憶をつくりだす私の能力によっている。つまり、記憶の連続性は人格の同一性にとって重要な要素なのである。

非ヒューム的な自己
ヒュームの主張は、私の自己を構成する特定の経験群(感覚たちなど)を超えたなにかを想定することは錯覚だ、というものだ。これに対してサールは、経験の継起のほかに、自己なるものを無条件に仮定しなければならないという。なぜならば、私たちはばらばらの無秩序な経験をするのではないからだ。むしろすべての経験は一つの統合された意識野の一部として経験される。さらに、時間的な意識野の連続性は、その意識の所有者自身の意識の連続性として経験される。
自己という存在者の経験を探してもなにも見つからない、という点ではヒュームは正しい。しかしそれは、そのようななんらかの存在者や形式的な原理を想定する必要がないということを意味しない。

結論
「私が私である」という感覚が存在するからといって、人格の同一性の問題が解決するわけではない。なぜなら「私が私である」という経験と、タイプ同一的な経験を他の誰もがもつ可能性があるからだ。本章は自己にかんする議論のほんのはじまりにすぎない。

2006.08.29 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

マインド-心の哲学10章

今日は10章「知覚」です。9章「無意識と行動」はあまり興味を引かなかったので飛ばします。

人は物理的対象をあるがままに見ている。この説を素朴実在論と呼ぶ。多くの哲学者はこれは間違っていると考えた。その理由は、第一に、科学の論法を素朴実在論に対してとると、素朴実在論は物理学的な記述となり、素朴実在論そのものを否定してしまうからだ。第二に、私たちは感覚所件(sense data)を知覚しているのであって、物理的対象そのものを知覚しているのではない。どういうことかというと、ある物理的対象を見ることと、その物理的対象の幻覚を見るのとでは違いがないのだから、私たちはその物理的対象の見かけを知覚しているといってもよい。その見かけを感覚所件と名付けるというのである。この考えを推し進めたのが現象主義と呼ばれているもので、心的な現象以外(物理的対象)は存在しないという立場である。しかし、サールはこの感覚所件論は間違っていると言っている。サールによれば、素朴実在論は科学の論法をとっても矛盾を導かないし、感覚所件説は公的な対象というものを無視した独我論的な話だからだ。前者については、視覚経験を得てそれは科学的に記述できる。それだけのことで矛盾はない。後者については、私たちは物理的に同一の対象を知覚していると考える以外に、どうやって公的な言語で同じ対象について語ることができるというのか。素朴実在論が正しいと証明することはできないが、否定することに意味はない。

2006.08.25 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

マインド-心の哲学8章

8章の題は「自由意志」です

自由意志はなぜ問題になるのかというと、私たちはふたつの矛盾した確信をもっているからだそうです。それは世界は決定論的に作用するという確信と私たちには自由意志があるという確信です。サールの言う自由意志は、決断と行為のあいだのギャップに基づいています。つまり、決断が必ずしも行為を導かない、そこに自由意志が介入してくる、と。

両立説は自由意志と決定論はともに正しいと主張します。両立説の見解では、すべての行為は決定されているが、自由な行為というものがあるそうです。そうした行為は確信とか推論などの内的な心理的過程によって決定されるらしいです。

「もし自由が現実的なものだとしたら、自由と決定論のギャップは神経生物学のレヴェルまで及んでくるはずである。しかし、そんなことがありえるのだろうか?」と述べています。そして次の二つの仮説について簡単な考察をしています。

仮説1ー決定論と機械的な脳
仮説2ー非決定論と量子論的な脳

仮説1は脳は機械と同じように完全に決定論的なシステムであるという説です。仮説2は神経生物学的な過程のそれぞれの段階は、次の段階を決めるのに十分ではないという説です。つまり、脳は基礎的なレヴェルで非決定論的であるということです。ただサールは「量子力学を自由意志の議論に導入するのはまったく見当外れだ」と言っています。量子力学はランダム性をもたらすが自由意志はランダムとは異なるし、もっと言えば、システムの要素が備える性質をシステム全体の性質として論じるのは間違っているから、だそうです。
仮説1に対するサールの唯一の異論は、人が自由と決定論のギャップを経験するとしたとき、仮説1はその経験を意味のない進化上の表現型に見せてしまうことにあるそうです。もし私たちの振る舞いがすべて決定論的、因果的な力によって完全に決定されているとしたら、もし自由意志は錯覚だとしたら、進化論的に見て自由がおいてこれほどまでに幅を利かせているのだろうか、と訝っています。

この章では、サールは自由意志に対する明確な主張をしていません。最後に、心と物理世界の関係とか、志向性といった問題が解けても「私たちに自由はあるか否か」という問いは残されるに違いないと言っているのみです。


2006.08.10 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

マインド-心の哲学7章

7章は「心的因果」です。

心について語るならデカルトを避けられないように、因果について語るならヒュームを避けて通れないそうです。ヒュームは因果は3つの構成要素からなると考えました。それは、

1. 先行性ー原因は結果より先に生じる
2. 空間・時間における近接性ー原因と結果は互いに近接している
3. 必然的な結合ー原因が結果を生じさせる

です。
さらにヒュームは、必然的な結合は知覚されないと考えました。つまり、知覚されるのはAが起こった後にBが起こるという順序のみということです。なぜなら、「必然的な結合」をなにか経験的な方法で証明しようとすると、「必然的な結合」自身が前提となってしまうからです。

さて、サールはこのヒュームの主張は間違っていると述べています。自分が意図的に行為をすれば、それが因果的に作用しているのは当然のことであるし、知覚の場合もなんらかの対象が知覚的な経験を引き起こすのは当然のことであるそうです。つまり、自分の経験の因果については必然的な結合を経験していると考えられるわけです。そして、このことを自分の経験からまったく独立した対象にもわけなく拡張できるといいます。つまり、他者や物がなにかを生じさる場合も、そこに因果関係を認めることができるというわけです。たとえば、ある車が別の車を押す場合、後ろの車が前の車を押していると理解するのは当然のことであると。とはいえ、因果に関わる経験は保証されたのではなく、ほかの知覚経験と同様に間違いうるもの(錯覚)で、ほかの知覚経験と比べて劣るものではないそうです。

また、腕を動かす場合、二つの原因があるように思われます。一つはニューロンに関する原因で、もう一つは意識の志向性に関する原因です。このことを「因果の重複決定」と呼ぶそうです。これについてサールは、ひとつの完全なシステムに関して異なる2つレベルの記述があって、それは、脳の物理的なレベルでの記述と意識的なレベルでの記述だそうです。この議論は4章「意識」でサールが行っていた議論とほぼ同じ形式のものです。


【“マインド-心の哲学7章”の続きを読む】

2006.08.04 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

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