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ブレインワイズ 3章 自分とは何か 後半

今日は『ブレインワイズ 脳に映る哲学』の3章の後半です。

2. 身体や自己の内部モデル

2.1 身体を表彰する神経系
「身体を表象する神経系は、体性感覚系と自律神経系に大別される」。体性感覚系は筋骨格系や皮膚に受容体を持っていて、自律神経系は循環器系と消化器系を支配している。

体性感覚系は身体の配置や身体と外的なものとの接触状態を脳が知るための基本的な装置である。体制感覚系は、触覚圧覚、温度覚、位置覚、痛覚の4つのモダリティに分けられる。4種類の受容体は脳へそれぞれ個別の信号伝達経路をもっていて、脊髄、脳幹、視床を通って大脳皮質へ投射している。そして、身体で近接しているものは、神経系でも近接している(例えば、手と腕は近いエリアにマップされている)。皮膚の受容体はさらにいくつかの種類にわけられる。産毛がある皮膚は毛の動きに反応した非常に軽い触覚刺激を感知する。皮膚にはさらに数種類の受容体があって、速い反応と遅い反応を示すものがある。また、温刺激と冷刺激に反応するそれぞれの受容体がある。
筋骨格系の受容体は、刻々と変わる身体の位置を脳に伝える。この情報を固有覚という。固有覚はほとんど意識されないが、これを伝える神経経路が破壊された患者は、自分の手足の位置を目で確認しないと姿勢を保つことすらできなくなってしまう。
新生児はどれくらい身体表象をもっているのだろうか。メルゾフは、生後42時間の乳児が、大人が舌を出したり、大口をあけたり、顔をしかめたりするのを真似するのを観察した。ただし、乳児は舌を出した状態だけを見ても真似をせず、運動全体を見たあとで真似をする。このことから言えるのは、新生児は、何を見ているか知っていて、それが自分の体のどこに対応するか知っているのである。つまり、他人の顔の運動を自分の身体表象にマップできるのである。

自律神経系は主に内蔵を支配していて、交感神経系と副交感神経系に二分される。交感神経系は獲物に襲いかかったりするときに働いて、心拍数を上げ、アドレナリンを分泌し、消化管の筋活動が抑制する。獲物を捕らえ食事になると、副交感神経系が働き、唾液が分泌され、消化管の運動が再開し、心拍数が減少する。自律神経系は自己表象にはあまり関係がないと思われる。しかし、生存のための機能を協調し、行動の選択に影響を与え、経験に情動的色彩を与える。

自己表象には直接的に関係してないかもしれないが、体性感覚系と自律神経系がその土台となっている。

2.2 自分以外のもののなかの自分
私たちが学ぶことの多くは、世界との因果関係である。私たちは、ある物を動かしたらどうなるかという因果関係を理解する必要があるが、それ以上に他人がどのように考えているか予想(表象)することが集団生活を営む上で重要である。相手の意図や欲求を感じ取ることは、「相手の表象」を表象するということである。しかしこれは間接的なものである。相手の気持ちを理解しようとするとき、相手の脳の状態を直接みることができないので、私たちは相手の顔色や態度から推測する。相手の表情を脳の状態の反映とみなすのである。(1章でも述べられているが)哲学者セラーズがいうように「他者や外的世界の表象を自分の中に再構築することは、科学的な仮説を立てることに似ている」。そして、エミュレーターの考え方を導入することにより、他者を理解する能力について、言語による推論が必ずしも必要でないことがわかる。相手の動作を観測して、その結果がどのようになるか順モデルを用いて推定できる。つまり、シミュレーションによって相手の意図を表象するのである。
これに関連したサルの神経生理実験がある。リゾラッティはサルの前頭前野に、他の動物が特定の動きを見たときに発火し、さらに自分がその動きをしたときにも発火するニューロン(ミラーニューロン)を見つけた。このニューロンは他の動物の動きを見たときに、その動きを解釈するのに使われるのである。

物事が、他人の視点からはどのように見え感じられるかを理解する能力を視点的表象という。自己について考えるとき、視点的表象をどの程度まで用いることができるかによって、自己表象の能力が決まる。


2.3 デカルトへの反論
ここで、デカルトが主張する心の特殊性に対する反論をあげている。
1.神経活動あったの知的活動である。
2.無意識に対応する神経活動がある。
最後に自分の心を直接知ることができるから心が特別なものであるということに対する反論として、
3.とくに病的な状態では自分の心の状態の判断を誤ることがある。


3. 自己表象への道程
脳は私たちを世界に適合させる。そして、人類には世代間伝達という能力がある。文化や技術が子どもたちに受け継がれていくのである。神経科学はまだ未熟であるが、今の答えが次の足場となって進歩していくのである。


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2006.02.23 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

ブレインワイズ 3章 自分とは何か 前半

P.S. チャーチランド著の『ブレインワイズ 脳に映る哲学』のレビューの続きです。

3章「自分とは何か」は、

 1. 自分とは何かとは何か
 2. 身体や自己の内部モデル
 3. 自己表象への道程

からなっています。

3章はちょっと長いので二回に分けます。
今日は「1. 自分とは何かとは何か」です。

1.自分とは何かとは何か
脳が「私を、他の誰でもない「わたし」にしているのである・・・・・・私が私自身について考える、そんなことを可能にする脳とは、いったい何だということになるのだろうか。」デカルトは根源的な自己とは物質的なものではないと考えた。ヒュームはこの考えを推し進め、自己という「もの」があることを証明しようとした。しかし、どうがんばっても証明できず、自己という「もの」は存在しないと結論した。「自分」とは「何か」、その「何か」についてヒュームは答えを出せなかった。
神経科学的な答えは以下のようなものである。思考は脳がする。「自己」を何らかのものであるとする思考も脳がする。したがって「自己」は脳から来る。
また、自己の起源について進化生物学からの答えは、「神経系が、知覚や記憶などを統合して生存協力に勝つために、脳は自己という概念を必要としている」である。
自己という概念には定まった輪郭はなく、様々な能力が乱れた編隊を組んで表れてくるようなものである。場合に応じて編隊の中のどれかの能力を自己と呼ぶのである。そして最も基本的な能力は、行動の目的や知覚や記憶などと運動を協調させることだろう。

自己とは何かという問題は「自己表象のさまざまな能力の集まり」と問い直せる。そして、「そのひとつひとつについて神経系のどの部分が関わっているかという問いを立てることができる」。表象とはなにか。それは何らかの情報に対応する神経活動のパターンである(詳しくは7章で)。何らかの情報とは、ほとんどあらゆるものについてのもので、食物や自分の仲間などだけでなく、自己への表象、つまり自分の知覚、感覚、好み、記憶なども含まれる。

 症例
今までの人生で経験したことの記憶を自伝的記憶という。自伝的記憶こそが、今の自分を決めているように思われる。そして、「自伝的記憶が失われれば、自己も失われるように思える」。しかし、そうではない。ダマジオの症例R.Bがそれを示している。R.Bはヘルペス脳炎によって過去のほとんどの記憶を失った(逆行性健忘)。そして新たなことも40秒後には忘れてしまう(前向性健忘)。しかし、R.Bには自己表象が保たれていた。R.Bは「私」という言葉を使うのである。例えば「いま私はコーヒーを飲みたい」などである。

統合失調症の患者ではR.Bと逆の症状が見られることがある。他人と自分の境界がわからなくなるのである。

左半身が麻痺した右頭頂葉損傷の患者は、左の手が自分のものであるとは認めても、それが麻痺していることを認めない。左手を動かすように指示されると、まったく動かせなかったにもかわらず、動かしたと主張するのである。


自己表象を脳がいかにして構築するかを解く鍵は、動物は動くということに尽きる。動物が、走ったり食べたりするためには、神経系が協調して働かなければならない。そして、そこには情動が大きく関与している。不快な情動は、ホメオスターシスを維持するための行動に駆り立て、快の情動は食事、性行為、安全になったときなどに得られる。「情動とは脳から動物に与えられる指令であり、自己表象にも強く関与している」。


 生きるためのエミュレーター
動物が生存するためには感覚と運動の協調が必要であり、そのためには脳内に身体のエミュレーターが存在するはずだという仮説がある。エミュレーターの役割は身体を適切に動かすためのシミュレーションを行うことである。例えば、目に映った対象に手を伸ばすとき、網膜座標系の位置情報からどのように腕を曲げたら対象に手が届くかという計算(シミュレーション)を行わなければならない。上記のような目標を達成するために必要な運動指令を計算するモデルを「逆モデル」という。しかし、逆モデルだけでは限界があるので、逆モデルと入出力関係が入れ替わった「順モデル」を導入することにより運動の誤差を計算できる。順モデルは、例えば、運動指令が得られたときにどのように腕が曲がるだろうかを計算するモデルである。この逆モデルと順モデルをあわせてエミュレーターと呼ぶ。エミュレーターによって知覚運動変換がスムーズになるだけでなく、オフラインの計画(知覚や運動のイメージ)もできるようになる。オフラインの計画とは、実際に運動することなしに、もしこのような運動をしたらどうなるかという予測をおこなうことである。さらに、エミュレーター(順モデル)からのフィードバックを利用すれば、運動後の知覚系からのフィードバックより速く情報を得ることができる。これは生死をわけるような速い対処が必要となる場面で大きな利点となる。

動いている犬を目を動かして追跡するとき、眼球の動きによる背景の移動と犬の動きを混同することはない(網膜上では犬は止まっていて背景は動いている)。なぜならば脳(エミュレーター)が眼球へ送られる運動指令のコピー(遠心性コピー)を分析しているからだと考えられている。
遠心性コピーを用いていることを示唆するデータがある。眼球を能動的に動かすと眼球と反対方向の運動知覚はキャンセルされる。では、受動的に眼球を動かされるとどうなるか。ヘルムホルツは片目を閉じてもう一方の目の外側を押してみた。そうすると静止している物体が動いて見えたのである。眼球は動くが、脳は眼球の運動指令を出していないので、遠心性コピーはない。したがって外界の動きとして知覚される。
また、スティーブンス(1976)は薬物を用いて眼球を動かす筋肉を麻痺させる実験をおこなった。左に眼球を動かそうとするが眼球は動かない。しかし、主観的には視野が左に動くのである。
他人にくすぐられるとくすぐったいと感じるが、自分でやってもそうは感じない。これについては、遠心性のコピーを得てエミュレーターが「自分が自分自身に触った」と解釈しその感覚をキャンセルするからだと考えれている。ブレイクモアは、被験者がレバーを押すと羽が動いて被験者をくすぐる装置を作ってこれを確かめる実験を行った。ただし、この装置は、被験者がレバー動かしても動かず実験者によって動かされる場合もある。被験者は自分で動かしたのか実験者が動かしたのかわからない。被験者のレバー押しと羽が動くまでに一定の時間差をもうけると、被験者は他人にくすぐられたと感じる。つまり、これは、自分の身体モデルについて時間情報が大切であることを示している。

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2006.02.21 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

ブレインワイズ 2章 形而上学とは

日本語訳の『ブレインワイズ 脳に映る哲学』は「1部 形而上学」と「2部 認識論」からなっています。(オリジナルには「3部 宗教」があったのですが割愛されています。)
構成は、

 1章 序
1部 形而上学
 2章 形而上学とは
 3章 自分とは何か
 4章 意識
 5章 自由意志
2部 認識論
 6章 認識論とは
 7章 表象する脳
 8章 学習する脳

となっています。

今日は「2章 形而上学とは」です。

1.アリストテレスの真意
万学の祖アリストテレスの代表的な著書に『自然学 Physica』がある。この書では、今でいう自然科学の様々なテーマが扱われている。けれども、アリストテレスはその後の仕事に題名を付けなかった。そして、のちに「自然学」以外の仕事が纏められ、「続・自然学」を意味する『形而上学 Metaphysica』という書名が付けられた。『形而上学』では、世界の究極的の構成要素(土、空気、火、水)や原因の種類や存在論など「自然学」より大きなテーマが論じられている。そして、アリストテレスは『形而上学』の内容を本質的には科学的方法の延長上にあるものと考えていた。しかし、後世の哲学者たちは、形而上学とは科学的方法では探求できないものを純粋な理性と反省、洞察と黙想をもって追求する学問と解釈し、あらゆる科学の基礎を定めるための学問としたのである。

19世紀末、科学が発達し形而上学の対象範囲が狭まっていくなかで、プラグマティズムという考え方が生まれた。プラグマティズムは哲学者パースによって提唱され、「科学的な方法論(観察、実験、仮説の設定、分析)よりも適切なものも根本的なものもないと認めざるを得ない」と主張する。そして、クワインがさらにこの考えを推し進めた。クワインによれば、「科学とは文化を進化させるための、常識を厳密で系統的に整理したものにほかならない」。

こうなると形而上学に残されている道は、まだ科学が扱えないテーマを扱うことである。最近まで心についての問い、意識とはなにか、自己とは何か、自由意志とは何か、などの問いは形而上学的な問題だった。しかし、神経科学の発達により心と脳についての問いが解明しつつある。心は形而上学上の問いではなくなるのだろうか。


2.形而上学と心
心が物質を超越した何かであるという証拠はない。しかし、心が脳の活動であるというデータは沢山ある。例えば、アルツハイマー病での知能低下や、逆さメガネをかけたときの適応と脳活動の変化などである。その中でもっともインパクトを与えたのは、分離脳の症例である。左右の大脳半球は脳梁という連絡網によってつながっている。1960年代に重度のてんかん患者に対する治療法とし、脳梁を切断する手術が行われた。その結果、てんかんは治まったのだが、左右の脳はそれぞれ別の知覚、運動の意思決定をもつようになった。左と右の脳に異なる視覚入力が入るように2つの写真を提示する。見えた写真と関連の深い図柄のカードを選ばせると、左手は右脳に入った視覚刺激と関連の深いカードを、右手は左脳に入った視覚刺激と関連の深いものを選んだ。この結果からいえることは、「ひとりの人間としての精神生活には、左右の脳の解剖学的な連結が必要だということである。」これは心が脳の活動であると言う仮説を支持するものである。

デカルトの二元論では無意識の心は想定されてなかった。無意識の認知活動の例は非常に多い。例えば、人の魅力や態度を顔をみて判断しようとするとき、瞳の大きさを無意識に判断の材料に使っている。瞳が小さいと魅力が乏しいのである。しかし、私たちは瞳を見ていることさえ全く意識してないのである。
また、inattentional blindsightという現象がある。スクリーンに垂直と水平の線分を提示してどちらが長いか判定させる課題を行っている最中に、瞬間的に視野の中心に単語(例えばFLAKE)を提示する。その提示時間は単語を知覚するためには十分である。しかし、線分に注目していると単語は意識にのぼらない。けれども、その後、FL○○○を見せて空所を埋めてもらうと、単語を提示されなかった人たちに比べて、そのFLAKEと空所を埋める割合が格段に上昇するのである。


3.因果関係は幻影か
伝統的な形而上学は因果関係を重視している。そして、次の2つは形而上学、神経科学においてともに議論されている。
(1)単なる「関係」と「因果関係」を、神経科学はいかにして区別するのか。
(2)あらゆる生物は、自分の生きる環境の事物や出来事の因果関係を知っているが、これはどのような神経生物学的メカニズムによって獲得されるのか。

(1)は方法論についての問いで、神経科学によらずあらゆる科学にとって重要な問題である。そして、これを真剣に考えれば統計学の重要がわかる。
(2)は神経系はいかにして「原因」と「たまたま共存する無関係な因子」を区別しているのか、ということである。

「因果関係についての説明は、物事がいかにして起こったのか、あるいはいかにして今ある状態になったのかが明らかにできるものでなければならない。」そして、原因には以下の3種類がある。
「(1)直接の原因(落雷のために山火事が起こる)
(2)素因としての原因(高血圧という素因は、脳出血の原因になる)
(3)背景としての原因(海に近い南の地であることが、サンディエゴの温暖な気候の原因である)」

ヒュームは、「人間に観察しうるのは順序だけである。そこに因果関係があるということは、人間の主観的判断にすぎない」と言った。ヒュームの主張に対する反論として「自然法則に従う必然」というものがある。つまり、真の因果関係は自然法則で説明できるというものである。しかし、はじめから因果関係を前提してしまう恐れがあるし、どのように自然法則とそうでないものを区別するかという問題もある。
ヒュームの主張に対して満足のいく反論は今のところない。

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2006.02.14 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

ブレインワイズ 1章 序

パトリシア・チャーチランドのBrain-Wiseの日本語訳版『ブレインワイズ 脳に映る哲学』(村松太郎訳)が出たので読んでいます。一章ずつレビューしていこうと思います。

今日は「1章 序」です。1章は4つの節から成っています。

1.主役は脳
「意思」、「自己」、「意識」というような、昔は哲学の研究対象でしかなかったものが、神経科学の進歩により科学的に解明できるようになってきた。もはや思弁的に議論するだけの哲学ではダメで、神経科学の結果を取り入れた哲学neurophilosophyが必要であるといっています。neurophilosophyは神経科学のデータを哲学的に鑑定することを目指すものだそうです。


2.古語となった自然哲学
哲学は「知を愛する」という意味で、当初その対象は今の科学から倫理学まで及んでいた。そのうち、「~とはなにか」を問うものが自然哲学、「人はどうすべきか」を問うのが倫理学と二分された。さらに自然哲学から物理学、化学、天文学、生物学などが独立した化学の分野として分かれていった。そして、自然哲学という言葉は廃れ、自然科学という言葉が使われるようになった。

心も自然科学の対象になったかというとそうではなかった。古代においてヒポクラテスは、思考、感情、知能は脳の活動であると確信していたが、多くの哲学者は、心は自然科学と異なった方法で研究されるものであると考えていた。
17世紀のデカルトは、心は物質的なものではないという考えを明確化し、心身二元論を唱えた。心と脳は別物で、思考、言語、記憶、意識などは心の機能であると考えたのである。次の3つの理由によりデカルトは心身二元論を主張した。
第一に、言語を使う能力は機械的な機能だけからは生まれず、それを超えた理性が必要である。
第二に、自由意志も機械的な機能からは生まれない。
第三に、自分の心は直接知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。知るという主体(心)が、体(物質)とは全くべつなものであるからこそこの違いが生まれる。

デカルトのいう機械的なものは、当時あった機械、時計やポンプや噴水のことである。デカルトも当時の科学技術を超えるもの(コンピュータなど)を想像できなかった。当時、コンピュータがあったなら、デカルトの考えも異なったものだったのかもしれない。

では、心と体はどのように相互作用するのだろうか。デカルトもこの問いには答えられなかったようである。そして、現在の心身二元論の擁護者も明確に答えることができていない。


他の分野の科学に比べて神経科学の進歩は遅々としていた。それは脳の研究が、他の分野と比べて桁違いに困難であるからである。

脳は神経細胞からできているが、体の構成要素が細胞であるとわかったのは17世紀、プルキンエによって神経細胞(細胞体のみ)が初めて発見されたのが1837年である。そして、20世紀半ばにようやく、神経細胞の構造がカーマイン染色やゴルジ染色によって明らかにされた。生きた神経細胞を分離して調べる技術が開発されたのは20世紀半ばを過ぎてからである。神経細胞が他の細胞と異なる最大の点は、シグナルを伝達するということだった。

基本的なシグナル伝達の機能が明らかにされると次はそのシグナルの内容は何かということである。1960年代に行われた視覚系の細胞の視覚刺激に対応する研究が大きな進展をもたらした。1970年代後半には、神経系の可塑性の研究が始まり、学習と記憶の研究が新しい局面に入り、1980年代までには注意という機能も神経科学の対象になってきた。今でも特に困難な問いは、個々の神経細胞の活動と、ネットワーク全体の関係を明らかにすることである。近年、fMRIやPETを用いた研究により、神経活動と認知活動の関係が明らかにされつつある。しかし、fMRIの空間解像度は数ミリメートルにすぎず、1立方メートルあたり10万の神経細胞があることを考えると、個々の神経細胞の同時計測はまだまだ先のことである。

fMRIやPETで課題を行ってその脳活動を計測すると場合、課題に関する脳活動と、ベースラインにある脳活動をどう区別するかという問題がある。現在では、課題に関する活動は、課題遂行時とそれ以外の活動の差であるとするMichael Posnerの理論が広く受け入れられている。しかし、脳のある領域の活動が課題遂行時に高くなったときに言えることは、それは課題遂行時に必要な活動の一つであるということまでである。観測されたのはたまたま多くの細胞が活動した部位で本当に重要なのは他の部位であるかもしれない。非侵襲脳活動計測を行うのは簡単であるが、実験パラダイムを厳密なものとして、攪乱因子を最少にし、慎重に結果を解釈しなくてはならない。


3.還元論の虚実
心は神経科学で説明できるか。つまり、心は神経科学に還元できるのか。
では還元論とは何か。簡単に言うと、マクロの現象をミクロのレベルで説明することである。
心と脳の関係について、単なる関係を超えた還元論的な説明が可能なのか、可能だとすればどのような方法で可能になるのかという難しい問いがある。これについて、科学史の中の、熱のカロリック説を例に出して考察している。温度を研究していた自然哲学者は熱はカロリックという液体によるものだと考えていた。熱い物体には冷たい物体より多くのカロリックがあるというのである。そうだとすると熱いものは冷たいものより重いはずである。しかし、重さは変わらなかった。また、摩擦によって熱はいくらでも生じる。重さを持たないカロリックという液体が、物質に無限に含まれるのだろうか。それともカロリック理論が間違っているのだろうか。そしてようやくトンプソンによって、熱はミクロのレベルのある種の運動であると結論づけられたのである。しかし、カロリック理論の信者は、いかなるものにも無限のカロリックが含まれていると主張し反論した。だが、やがて科学の進歩に伴って、カロリック理論の矛盾と、熱が分子の運動であるという説を支持する事実が積み重なってカロリック理論は消えていった。熱が平均分子力学エネルギーに還元されたのである。還元論が勝利しても謎は残るがそれによって科学はまた先に進むことができる。

還元論的な説明は非常に複雑な場合がある。分子生物学の遺伝子型(genotype)と表現型(phenotype)がその例である。どのように遺伝子が生物の構造を決めるのか、これは非常に複雑であるが、実験データの積み重ねで、還元論的な説明が可能になっている。
また、還元論的な説明は、学問の早期には見えてこない。早期には、マクロのレベルの理論とミクロのレベルの理論の関係は乏しく、還元論的な説明がなされない。けれども、データが蓄積していくにしたがい、あるレベルの理論によって他のレベルの現象を説明したり予測したりできたとき、還元論的な説明が可能になる。

しかし、還元論は多くの哲学者から軽視されている。心とはコンピュータのソフトウェアのようなものであるという機能主義を支持する哲学者が多いからである。脳はハードウェアで心はその上で動くソフトウェアである。だから脳をいくら調べても心は理解できないというのである。
これに対する最大の批判は、神経系にはハードとソフトの区別は無いということである。神経系は、分子から脳全体のレベルにまで多くのレベルからなる階層構造をとっているが、そこには、ハード、ソフトの区別は存在しない。
ともかく、データと実績によって神経科学と認知科学は共進化している。そしていつかは心が神経科学に還元されるだろう。


4.3つの仮説
この本の底には3つの仮説がある。
仮説1.「心とは、脳の活動である。ただしこの仮説は科学的に検証されるべきである」
仮説2.「神経科学は、適切な研究テーマを決定するために、認知科学を必要とする」
仮説3.「脳を神経系の多くのレベルで理解することは、心の理解のために必要である」

本章の最後に、神経科学はまだ若い学問で、物理学や分子生物学にあるような学問の中心原理がまだない。神経科学の真の革命は、その原理が明らかにされてからだろう、と述べられてある。


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2006.02.11 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

ポピュレーション・コーディング

Information processing with population codes

今日の輪講で後輩のSくんが紹介してくれましたポピュレーション・コーディングのレビュー論文です。
計算論的神経科学において、脳の神経回路でどのように情報がコードされているか、という問題があります。それに対する有力な説がポピュレーション・コーディングです。ポピュレーション・コーディングとは、複数の異なる値にそれぞれ活動のピークをもつ神経細胞のベクトル表現により、知覚刺激の運動方向などをコードしているというものです。単純なモデルは、

 r = f(s) + n

sは符号化する変数、f(s)は応答関数(チューニングカーブ)、nはガウスノイズ、rは細胞の発火頻度です。ここではfはそれぞれ異なる平均(preferred directioon)をもつはガウシアンと仮定しています。
神経細胞の活動rが得られたときに刺激sをデコードするには、ベイズの法則より、

 P(s|r) = kP(r|s)P(s)

として最尤推定やMAP(maximum a posteriori)推定などをして、sを求めます。また、Deneveらが大脳皮質の構造に似た側方に結合のあるニューラルネットで最尤推定によるデコーディングができることを示しているようです。

最後に、上記の単純なコーディングモデルでは、Transparent motionや覗き窓問題に対応できないので、非線形なモデルに拡張する必要があると論じられていました。


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2006.02.03 | | Comments(1) | Trackback(0) | 論文の紹介

意志は心のトリック?

The mind's best trick: how we experience conscious will

私たちはある行動を行おうと思ってからそれを実行をしていると思っています。しかし、本当は「意志があって行動」という因果関係は存在しないのかもしれません。実際には、心(脳)が私たちに、あたかも意志が行動を生じさせたように見せかけているのではないか、というのが本論文の主張です。

意志と行動が乖離している生理学的な知見をいくつかあげています。
1、ペンフィールドの実験では、大脳の運動エリアを直接電気刺激してやると腕が動くが、被験者は腕を動かしたとは感じずに、ペンフィールドに腕を引っ張られたと感じた。
2、TMSで被験者の左と右の運動エリアを交互に刺激してやると人差し指が動くのだが、被験者は自分の意志で動かしたと報告した。
3、リベットが行った実験では、運動準備電位→被験者の意志→運動、という時系列になっていた。
その他の例として、統合失調症患者の幻覚やこっくりさんなどを紹介しています。

また、どのような場合に意志を経験するかについて、3つの原理をあげています。
1、優先度(priority):行動の前に行動と関係のあることを考えた場合
2、一致性(consistency):考えていたことと行動の結果に一貫性があるような場合
3、排他性(exclusivity):行動について他に考えられる原因が無い場合

意志と行動の関係を計算する私たちの心のシステムは、私たちに意志を経験させるが、それはおおざっぱなものでしかないのだから、多くの場合で間違った推定をしてしまう。


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2006.02.02 | | Comments(0) | Trackback(0) | 論文の紹介

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