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ブレインワイズ 4章 意識 前半

ちょっと前回から間が空いてしまいましたが『ブレインワイズ 脳に映る哲学』の要約を続けていきたいと思います。

4章は、
1. 問題のありか
2. 心身二元論から科学への挑戦状
の2節からなっています。

4章も長いので2回にわけます。今日は、「1. 問題のありか」です。

1.問題のありか

意識されていることとされていないことの違いは何か。この問いに対して2つのアプローチがある。一つは科学的な方法で明らかにしようとする立場で、もう一つは科学では決して解明できないとする(神秘主義的と呼ばれる)立場である。ここでは科学的な方法について考えていく。
意識の定義は何か。定義するためには正確な分類が必要だが、意識についてはそれができない。結局、科学的な理論と定義は相補的に進むしかない。そのものについての科学が成熟してはじめて、その定義が可能になる。それでは、いま意識の定義が明確に決まらないのならどうしたらよいだろうか。そのためには、「研究しようとしている現象にあたるとされる例をいくつか挙げて比較検討し、そこから浮き彫りにされてくるものをつかむのである」。まず、知覚に関する意識があげられる。そして、何かを思い出したり、予想したり、怒ったり笑ったりするときの意識がある。意識の科学は始まったばかりなので、とりあえず意識についてのプロトタイプを大まかに決めて、意識の科学について有意義な実験を開始しなければならない。長期的には代謝や生殖と同じレベルまで意識を理解したいが、ひとつの実験パラダイムで解明しようというのは非現実的なので、短期的な、現実的な目標を立てるべきである。

直接的アプローチ
意識に対応する物質的な「もの」を同定し、神経生物学によって説明することを目指すのが直接的アプローチである。ここで言う物質的な「もの」とは、特定の部位にある何かとは限らず、神経細胞の活動パターンである可能性がある。研究対象の基盤となる何かが発見されると大きな発展が期待できる。たとえば、DNAのらせん構造の発見によりたんに遺伝情報の構造が明らかになっただけでなく、タンパク質合成の仕組みや遺伝のメカニズムの基礎が解明されたのである。同じようなことが意識の科学的な研究にも言えるはずである。クリックは次のような前提を立てた。呈示された刺激を被験者が意識している状態と、意識していない状態では脳のレベルで何らかの違いがあるはずである。そして、適切な実験を行えば、この違いを発見することができるはずである。この検証に適した心理学的現象を選び実験を行い、意識の有無によって異なる神経レベルの相違を明らかにすれば、意識のメカニズムの解明につながるはずである。

両眼視野闘争
クリックの前提に適した現象が両眼視野闘争である。左右の目に異なる絵を入力させると、左目に見せた絵と右目に見せた絵が交互に知覚される。両眼視野闘争の実験をする場合、顔の絵を用いるのがよい。顔に選択的に反応する部位があるからだ。サルではSTS(上側頭回)と呼ばれる部位のニューロンが顔に特異的に反応する。人間でも顔に特異的に反応する部位があることがわかっている。
両眼視野闘争の神経科学の実験は1989年にNikos Logothetisによってはじめて行われた。そして、1997年に顔と太陽を用いたサルの実験が行われた。サルは「顔が見えてます」と言葉にはできないので、予め顔が見えたか太陽が見えたかで別々のボタンを押すように報酬を与えて訓練しておく。両眼視野闘争の実験の結果、顔刺激の意識の有無に関わらず反応するニューロンと、顔刺激が意識されたときにのみ反応するニューロンがあった。STSでは約90%のニューロンが顔刺激の意識に関連するニューロンが存在することがわかった。しかし、実際には、視覚的意識に一致していないのかもしれない。視覚的意識の結果、活動したのかもしれないし、視覚的意識の前段階の活動だったのかもしれない。

同じような実験パラダイムを用いたヒトのfMRI実験がある。Roger Tootellらは、滝の錯視(滝をずっと見た後に静止しているものを見ると止まっているものが上に動いているように見えるという錯視)が起こっているときの脳活動をfMRによって調べた。その結果、動きに反応するMTやが錯視のときに活動していた。また、幻覚を見ているときの患者の脳活動をfMRIで調べてみると、一次視覚野はほんとんど活動していなかったが、視覚野の腹側部が活動していた。これらの結果から、少なくとも視覚野のある細胞群が視覚意識に関連しているということがいえる。

逆行投射と意識
V1からV2へシグナルが伝わるというような順方向の投射だけでなく、その逆の投射も脳の至る所にある。Gerald Edelmanはこの逆投射が意識を生成するのではないかと考えた。Edelmanがこのように考えた訳は、知覚は常に「分類」という側面をもっているからだ。悲しんでいる顔を見て、これは「顔」で、そして「悲しんでいる」と判断するわけでなく、「悲しんでいる顔」として知覚する。順方向の投射しかない神経回路ではこのような処理はできない。

クリックとコッホが挙げて意識の神経相関についての知見を挙げる
 - 意識に関連する神経細胞は、空間的に広く分布している。
  そして、特定の意識が生じるときに一時的に「協力関係」を作っている。
 - 上記の神経細胞集団の活動がある閾値を越えると知覚意識が生じる。
 - 上記の「協力関係」は神経細胞の同期によるのが普通である。
 - 知覚意識の神経細胞の活動時間は短いが一定の長さを持っている。
 - 注意によりどの神経細胞が閾値を越えるかが変わる。
 - ある意識において、意識体験そのものとして活動する神経集団
  「節 node」とそれに対する暗黙知「背景活動」がある。
 - ある瞬間に意識として表れるのは、さまざまな「節」同士の競合に勝った
  「節」に対応する意識である。

意識と神経活動についての5つの可能な解釈
(1)その神経活動は意識の背景にすぎない
(2)その神経活動は意識を生じさせる原因の一部である
(3)その神経活動は意識を生じた結果の一部である
(4)その神経活動は意識と並行しているが、直接の関係はない
(5)その神経活動は意識と一致している

ただ実験データを慎重に検討すれば意識が解明されるとは限らない。光のメカニズムの解明にはマクスウェルの電磁波の理論が必要であったように、意識についても新しい理論が必要かもしれない。


間接的なアプローチ
注意、知覚、記憶,思考など意識となんらかの形で結びついているメカニズムを解明していけば、意識とは何かがわかるだろうというのが間接的アプローチである。そのため、間接関なアプローチで意識を解明するには、脳の大部分の機能が理解される必要がある。

提示版としての意識
「意識という機能があることによって、生体にはどんな利点があるのだろうか」。まず知覚や想像や推論や運動コントロールなどが柔軟になる。そして、ヒトは他者に自分の経験を報告することができるようになる。意識の柔軟な認知機能は脳内の情報に広くアクセス可能と考えることができる。Dennetは「全方向にアクセス可能であること、それこそが意識である」と主張した。Baarsはこの考えを発展させ「意識の掲示板モデル」を提案した。つまり、意識とは、公開されていて、さまざまな認知機能がアクセス可能な情報のようなものであるという。そして、Baarsは注意や覚醒に重要な働きを果たしている網様体賦活系が、どのような情報を掲示板にのせるかを決めるうえで重要であると推測した。ここで、アクセス可能であるとは神経生物学的にはどのようなことかというと、たとえば、神経細胞bが神経細胞aにアクセス可能であるとは、神経細胞aが神経細胞bの活動を引き起こすということである。

自己、主観、意識
Antonio Damasioは「意識は高次の自己表象から生まれる」と考えた。Damasioは意識と自己表象の関係を進化論的に説明している。どんな原始的な生物の神経系も、生体に内外を表象する内的モデルをもっている。この内的モデルが進化の過程で洗練され、内的モデルそのものを表象する神経回路が生まれた。つまり、現在の生体の知覚や情動といった状態を表象できるようになった。これが意識である。そして最も重要な点は、内と外の関係を表象(メタ表象)できるようになったことである。メタな表象ができると行動の選択肢を評価する能力が豊かになって生存に有利になる。
Damasioによれば、感覚の質的な違いは、表象するシグナルの相違から生まれる(例えば、網膜と嗅上の違いとか)。
どれをいつ意識できるかは脳がさまざまなシグナルを統合して決めている。Damasioは脳幹の特定の核に、その生物の状態と未来の指向に関する現在の活動についての情報が集中していると予測している。この情報を用いて脳幹が皮質の活動を調整しているというのである。


"掲示板としての意識" で「意識という機能があることによって、生体にはどんな利点があるのだろうか」。知覚や運動コントロールが柔軟になる。他人に自分の経験を報告できるとあるが、そもそも意識は機能なのだろうか?意識を機能として説明でき、かつそれで十分であるということに対して、Chalmersはおおいに疑っている。私も意識については機能やメカニズムで説明できる以上の何かがあるような気がする。しかし、気がするだけでそんなものはないのかもしれない。ただ自分の脳がそのように私に感じさせているだけで、それによって、私に私の唯一性を感じさせ、生きるという動機を持たせているだけなのかもしれない。
また、意識があることによって、知覚や運動コントロールが柔軟になり、他人に自分の経験を報告できるとあるが、別に意識が無くてもできるのではないか。つまり、ゾンビでもいいのではないかと。しかし、このように考えるのは神経生物学に根を置かない哲学的な妄想でしかないのかもしれない。

最後に、直接的なアプローチと間接的なアプローチに関連した代表的な2人の哲学者の主張を挙げておく。

David Chalmers
Facing Up to the Problem of Consciousness

Daniel Dennett
Facing Backwards on the Problem of Consciousness

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テーマ:心・脳・言葉・人工知能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2006.03.06 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

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