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ブレインワイズ 5章

今日は「5章 自由意志」です。

1. 意志と罰
報酬と罰は人間の行動に影響を与える。報酬と罰がある社会のなかで円滑に行動するためには、自分の行動をコントロールできなくてはならない。自由意志や責任についての考え方は、意思決定の神経メカニズムが解明されるにつれて変わるのだろうか。

2. 行為の原因と自由意志
昔から、行為の結果に責任があるかどうかはその行為の原因によると考えられてきた。自由意志による選択とは、他に原因がなく自分で決定した行為ということになる。では外的な原因なき選択(これをリベラタリアニズムという)とは本当にあるのだろうか。ヒュームはリベラタリアニズムを否定した。人間の選択には心の中に何らかの原因があるに違いないという。それは「欲求」や「信念」と呼ばれるものである。
ここで押さえておかなくてはならないのが、原因があるからといって予測できるわけではないということである。意志決定に関わる脳活動にもすべて原因があると思われるが予測できるわけではない。

3. 自由意志についての旧説
「原因が本人の内部にあれば、それは自由意志による行為である」というのは誤りである。ハンチントン病の原因は線条体の異常によるものだが、患者の欲求や意図に無関係に不随意運動が生じてしまう。

「本人が行為の意図を意識していれば、それは自由意志による行為である」というのも誤りである。強迫性障害の患者には行為の欲求や意図があるが、どうしてもその行為をやめられない。

「自由意志による行為には、本人にその実感がある」というのも誤りである。日常では、ちょっとした影響が無意識に自分の行動を決めている場合が多々ある。

「別の行為をとることができたかどうかが、自由意志による行為かどうかの基準である」。これはそもそも循環論法である。

4. 意志決定の神経生物学に向けて
自由意志による行動かそうでないかの境界は曖昧である。とくに「脳のメカニズムが解明されるにつれて、どんどん曖昧になってきている」。自由意志に関連する脳部位のなかで重要と考えられているのは、前部帯状回、海馬、島、前頭葉腹側皮質などである。帯状回が損傷した患者は意識があるのに自発的な運動ができなくなってしまう。セロトニン、ドーパミン、エピネフリンなどの神経修飾物質も自由意志になんらかの影響を及ぼしている。「意志の神経機構の詳細はまだまだ不明である」が、神経科学が進めば「最終的には、自己コントロールの範囲内にある行為と範囲外にある行為を、神経科学によって区別できるようになることが期待される」。
理性が感情に勝てば正しい意思決定ができる(カントの倫理哲学)かどうかというと、そうではない。意思決定を行うためには自己の行動の帰結を予想する必要がある。そのとき自己の反応も予測しなくてはならない。自己の「反応の予測のためには感情が必要なので、結局は感情が自己の言動を左右する」。
「正しい意志決定のためには感情の役割が非常に重要であることが明らかにされている」。前頭葉腹内側部に損傷がある患者は理性のレベルでは損得を理解しているが、実際の行動では目先の利益にとらわれてしまう。この患者は知識や短期記憶も正常である。しかし、健常者で判断行動時に見られる皮膚電気反応が得られない。これは情動に関連したデータである。つまり、この患者は意思決定時に関わる情動が欠落しているために意思決定がうまく行えないのである。「複雑な決定を下すべき前頭葉が、複雑な状況や計画や考えについての情動的な価値についての情報にアクセスできない」のである。情動は行動選択のまえに無意識に私たちの判断に影響を与えていて、なぜ選択しかた説明できるのはその後なのである。
「人は行動を選択する前に、その結果を予測し、評価する」。通常は「認知と情動を別と考えるのであるが、脳という観点からすれば、両者を単純に切り離すことはできない」。

5. 理性を学習する
理性的な判断は経験に基づいて身につけたものである。理性的という概念を学習するためには情動の働きが必要である。扁桃体が壊れてしまって恐怖という感情を失った患者は、ごく簡単で論理的に判断できる状況に置いては危険を認知できるが、複雑な社会・対人関係では危険を察知することができない。
ダマシオは情動には「第一の情動」と「第二の情動」があると言った。「第一」は外的な刺激に対する反応で、「第二」は内的に作られた表象や過去の思い出に対する反応である。そして過去の類似した状況と同じような感情を呼び起こすことが意思決定に影響するという。

6. 責任の行方
脳内には必ず行動の原因があるとなると、その行動の責任が当人に本当にあるのだろうか。
結論:「人には責任はあるのだ。もし責任がないとされると、社会は機能しなくなってしまうからだ」。
また責任がないとすれば自らの失敗について悔恨などの感情が生まれず人は成長しなくなってしまう。


ようやく「第1部 形而上学」のレビューが終わりました。次回からは「第2部 認識論」です。

「もし責任がないとすると社会が機能しなくなる」ということから、責任とは必要に迫られて生まれた概念であると考えられる。そうすると責任の有無についての議論はそもそも実質的に意味のあるものかどうか疑わしくなる。少なくとも責任の所在は明確であると思う。行為の原因が脳内にあるとしたら、病気などの特殊?な例を除いて、責任はその脳の持ち主にある。それが責任の最小単位だと思う。一個人より細かく分けて責任を考える必要性はほとんどないのではないか。

今回の話と2月に紹介した"The mind's best trick: how we experience conscious will"とを絡めて考えると面白いかもしれない。意図も自由意志も無意識に規定されるものだったら、「私」の居場所がどんどんなくなっていくように感じられる。

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テーマ:心・脳・言葉・人工知能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2006.04.12 | | Comments(2) | Trackback(0) | ブレインワイズ

コメント

脳のなかの倫理

の第6章「わたしの脳がやらせたのだ」を昨日読んだら
ちょうど似たような議論がありましたよ。
Gazzanigaもyoureisoulさんと似たような意見で、
責任は社会に存在する概念で、脳に存在するものではない、と。

ところで「脳のなかの倫理」でこんなのがありました。

リベットやラマチャンドランは、
無意識に決定された意志が出てから行動するまでの
0.1秒ほどの空白の時間に、無意識の決定を
"禁止する"自由意志(自由否定)、
があるという。

と。どう思われますか?
僕はそんなものはなくて、
「私」の居場所はほとんどないと思っていますが、
そんな自由意志があったらおもしろいそうですけどねぇ。

2006-04-14 金 06:17:24 | URL | しろうと #- [ 編集]

私の考え

禁止するなら何か代替案が必要になるかと思われます。
私はその0.1秒というのが提出された案を採択または棄却する時間と考えます。そして、最初の案をどれくらいの確率で採択するかはセロトニンなどの衝動性に関わる神経修飾物質によって制御されているのかもしれません。

「私」とはそれらすべてを含むシステムだと思いますが、
私に「私」という感覚があるのは不思議ですね。

2006-04-14 金 10:37:14 | URL | yureisoul #- [ 編集]

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