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マインド-心の哲学 3章

第三章では、唯物論への反論と、それに対する唯物論からの応答が紹介されている。

唯物論への八つ(と半分)の反論
1クオリアの不在
意識には質的な側面、クオリアがある。しかし、機能主義のような説明ではクオリアを説明できない。

2スペクトルの反転
二人が同じものを見たとき、内的な経験が同じかどうかはわからない。機能主義は内的な経験を説明できないのだから間違っている。

3トマス・ネーゲル コウモリであるということはどのようなことか
コウモリについての神経生理学的な知識が完璧にあったとしても、コウモリであるということはどのようなことであるかわからない。客観的な説明では意識の主観的な側面を説明できない。

4フランク・ジャクソン メアリーが知らなかったこと
これはほぼ3と同じ

5ネッド・ブロック 中国人民
中国人民が脳内のニューロンと同じように動作してとしても心をもつことはない。

6ソール・クリプキ 固定指示子
固定指示子とは、起こりうる可能性すべてにおいて、つねに同一の対象を指し示す表現である。ある人物の氏名がこれにあたる。ここで、同一性文(AはBであるという文)を考える。Aが固定指示子、Bが固定されていない表現の場合、この文は必ずしも真ではない。A、Bともに固定指示子の場合、この文は必然的に真である。今、Aに心的状態のタイプを示す固定指示子、Bに脳状態のタイプを示す固定指示子を考える。しかし、脳状態Bがなくても心的状態Aが起こりえるし、脳状態Bがあっても心的状態Aが起こりえないということもありえる。
よって、この同一性文は偽である。

7ジョン・サール 中国語の部屋
これは強い人工知能に対しての批判である。中国語の部屋と私では、動作は同じでも中身は全く異なる。私は理解してコミュニケーションをとるが、中国語の部屋には全く理解というものがない。
また計算は観察者関与的であるということである。この観点は重要であると思われる。「計算や情報は確かにそこにある。しかし、それは観察者関与的なのであって、計算機や書物に本来的に備わっているものではない」。

8ゾンビの想像可能性
自分と全く同一な振る舞いをするが心の状態をまったく持たないゾンビを考えられる。

どの主張も、唯物論では一人称的、主観的な側面を取りこぼしているという。

唯物論からの応答
サールによれば唯物論からのどの反論も不完全であるそうだ。

水とH2Oの場合は、2つの異なるものがあるのではない。H2Oから構成される水というものがあるだけだ。しかし、意識や志向性をニューロンの状態に同定しようとしたときはそのような説明が適切であるか疑わしい。心的現象に関する三人称的な記述は、「私」が経験する限りにおいてはじめて存在する意識とか志向性というものを取りこぼしてしまうからだ。

記号を操作することと、その意味を知ることは別のことだ。

物理的システムに関する三人称的な記述は、それが意識状態を備えていることを必然的に含んでいない。三人称的なふるまいに関わる物理的なものと、一人称の意識経験があるからだ。

結論
二元論がいわんとしていることも、唯物論がいわんとしていることもどちらも正しいように思える。本当の問題は概念的な混乱に関わっている。二元論と唯物論の見解を両立させるには、伝統的な語彙の背後にある前提を捨てなくてはならない。

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2006.07.02 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

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