スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | | スポンサー広告

ブレインワイズ 1章 序

パトリシア・チャーチランドのBrain-Wiseの日本語訳版『ブレインワイズ 脳に映る哲学』(村松太郎訳)が出たので読んでいます。一章ずつレビューしていこうと思います。

今日は「1章 序」です。1章は4つの節から成っています。

1.主役は脳
「意思」、「自己」、「意識」というような、昔は哲学の研究対象でしかなかったものが、神経科学の進歩により科学的に解明できるようになってきた。もはや思弁的に議論するだけの哲学ではダメで、神経科学の結果を取り入れた哲学neurophilosophyが必要であるといっています。neurophilosophyは神経科学のデータを哲学的に鑑定することを目指すものだそうです。


2.古語となった自然哲学
哲学は「知を愛する」という意味で、当初その対象は今の科学から倫理学まで及んでいた。そのうち、「~とはなにか」を問うものが自然哲学、「人はどうすべきか」を問うのが倫理学と二分された。さらに自然哲学から物理学、化学、天文学、生物学などが独立した化学の分野として分かれていった。そして、自然哲学という言葉は廃れ、自然科学という言葉が使われるようになった。

心も自然科学の対象になったかというとそうではなかった。古代においてヒポクラテスは、思考、感情、知能は脳の活動であると確信していたが、多くの哲学者は、心は自然科学と異なった方法で研究されるものであると考えていた。
17世紀のデカルトは、心は物質的なものではないという考えを明確化し、心身二元論を唱えた。心と脳は別物で、思考、言語、記憶、意識などは心の機能であると考えたのである。次の3つの理由によりデカルトは心身二元論を主張した。
第一に、言語を使う能力は機械的な機能だけからは生まれず、それを超えた理性が必要である。
第二に、自由意志も機械的な機能からは生まれない。
第三に、自分の心は直接知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。知るという主体(心)が、体(物質)とは全くべつなものであるからこそこの違いが生まれる。

デカルトのいう機械的なものは、当時あった機械、時計やポンプや噴水のことである。デカルトも当時の科学技術を超えるもの(コンピュータなど)を想像できなかった。当時、コンピュータがあったなら、デカルトの考えも異なったものだったのかもしれない。

では、心と体はどのように相互作用するのだろうか。デカルトもこの問いには答えられなかったようである。そして、現在の心身二元論の擁護者も明確に答えることができていない。


他の分野の科学に比べて神経科学の進歩は遅々としていた。それは脳の研究が、他の分野と比べて桁違いに困難であるからである。

脳は神経細胞からできているが、体の構成要素が細胞であるとわかったのは17世紀、プルキンエによって神経細胞(細胞体のみ)が初めて発見されたのが1837年である。そして、20世紀半ばにようやく、神経細胞の構造がカーマイン染色やゴルジ染色によって明らかにされた。生きた神経細胞を分離して調べる技術が開発されたのは20世紀半ばを過ぎてからである。神経細胞が他の細胞と異なる最大の点は、シグナルを伝達するということだった。

基本的なシグナル伝達の機能が明らかにされると次はそのシグナルの内容は何かということである。1960年代に行われた視覚系の細胞の視覚刺激に対応する研究が大きな進展をもたらした。1970年代後半には、神経系の可塑性の研究が始まり、学習と記憶の研究が新しい局面に入り、1980年代までには注意という機能も神経科学の対象になってきた。今でも特に困難な問いは、個々の神経細胞の活動と、ネットワーク全体の関係を明らかにすることである。近年、fMRIやPETを用いた研究により、神経活動と認知活動の関係が明らかにされつつある。しかし、fMRIの空間解像度は数ミリメートルにすぎず、1立方メートルあたり10万の神経細胞があることを考えると、個々の神経細胞の同時計測はまだまだ先のことである。

fMRIやPETで課題を行ってその脳活動を計測すると場合、課題に関する脳活動と、ベースラインにある脳活動をどう区別するかという問題がある。現在では、課題に関する活動は、課題遂行時とそれ以外の活動の差であるとするMichael Posnerの理論が広く受け入れられている。しかし、脳のある領域の活動が課題遂行時に高くなったときに言えることは、それは課題遂行時に必要な活動の一つであるということまでである。観測されたのはたまたま多くの細胞が活動した部位で本当に重要なのは他の部位であるかもしれない。非侵襲脳活動計測を行うのは簡単であるが、実験パラダイムを厳密なものとして、攪乱因子を最少にし、慎重に結果を解釈しなくてはならない。


3.還元論の虚実
心は神経科学で説明できるか。つまり、心は神経科学に還元できるのか。
では還元論とは何か。簡単に言うと、マクロの現象をミクロのレベルで説明することである。
心と脳の関係について、単なる関係を超えた還元論的な説明が可能なのか、可能だとすればどのような方法で可能になるのかという難しい問いがある。これについて、科学史の中の、熱のカロリック説を例に出して考察している。温度を研究していた自然哲学者は熱はカロリックという液体によるものだと考えていた。熱い物体には冷たい物体より多くのカロリックがあるというのである。そうだとすると熱いものは冷たいものより重いはずである。しかし、重さは変わらなかった。また、摩擦によって熱はいくらでも生じる。重さを持たないカロリックという液体が、物質に無限に含まれるのだろうか。それともカロリック理論が間違っているのだろうか。そしてようやくトンプソンによって、熱はミクロのレベルのある種の運動であると結論づけられたのである。しかし、カロリック理論の信者は、いかなるものにも無限のカロリックが含まれていると主張し反論した。だが、やがて科学の進歩に伴って、カロリック理論の矛盾と、熱が分子の運動であるという説を支持する事実が積み重なってカロリック理論は消えていった。熱が平均分子力学エネルギーに還元されたのである。還元論が勝利しても謎は残るがそれによって科学はまた先に進むことができる。

還元論的な説明は非常に複雑な場合がある。分子生物学の遺伝子型(genotype)と表現型(phenotype)がその例である。どのように遺伝子が生物の構造を決めるのか、これは非常に複雑であるが、実験データの積み重ねで、還元論的な説明が可能になっている。
また、還元論的な説明は、学問の早期には見えてこない。早期には、マクロのレベルの理論とミクロのレベルの理論の関係は乏しく、還元論的な説明がなされない。けれども、データが蓄積していくにしたがい、あるレベルの理論によって他のレベルの現象を説明したり予測したりできたとき、還元論的な説明が可能になる。

しかし、還元論は多くの哲学者から軽視されている。心とはコンピュータのソフトウェアのようなものであるという機能主義を支持する哲学者が多いからである。脳はハードウェアで心はその上で動くソフトウェアである。だから脳をいくら調べても心は理解できないというのである。
これに対する最大の批判は、神経系にはハードとソフトの区別は無いということである。神経系は、分子から脳全体のレベルにまで多くのレベルからなる階層構造をとっているが、そこには、ハード、ソフトの区別は存在しない。
ともかく、データと実績によって神経科学と認知科学は共進化している。そしていつかは心が神経科学に還元されるだろう。


4.3つの仮説
この本の底には3つの仮説がある。
仮説1.「心とは、脳の活動である。ただしこの仮説は科学的に検証されるべきである」
仮説2.「神経科学は、適切な研究テーマを決定するために、認知科学を必要とする」
仮説3.「脳を神経系の多くのレベルで理解することは、心の理解のために必要である」

本章の最後に、神経科学はまだ若い学問で、物理学や分子生物学にあるような学問の中心原理がまだない。神経科学の真の革命は、その原理が明らかにされてからだろう、と述べられてある。


<還元論の虚実>の部分を読むと、あたかも機能主義が脳を無視しているように捉えられます。しかし、機能主義とは対象の機能に注目して解釈しようという立場であると思われますので、「脳=ハード、心=ソフト」という考え方と必ずしも一致するわけではないでしょう。機能主義についてはいつか折りをみて考察します。

スポンサーサイト

テーマ:心・脳・言葉・人工知能 - ジャンル:学問・文化・芸術

2006.02.11 | | Comments(0) | Trackback(0) | ブレインワイズ

«  | HOME |  »

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。