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マインド-心の哲学7章

7章は「心的因果」です。

心について語るならデカルトを避けられないように、因果について語るならヒュームを避けて通れないそうです。ヒュームは因果は3つの構成要素からなると考えました。それは、

1. 先行性ー原因は結果より先に生じる
2. 空間・時間における近接性ー原因と結果は互いに近接している
3. 必然的な結合ー原因が結果を生じさせる

です。
さらにヒュームは、必然的な結合は知覚されないと考えました。つまり、知覚されるのはAが起こった後にBが起こるという順序のみということです。なぜなら、「必然的な結合」をなにか経験的な方法で証明しようとすると、「必然的な結合」自身が前提となってしまうからです。

さて、サールはこのヒュームの主張は間違っていると述べています。自分が意図的に行為をすれば、それが因果的に作用しているのは当然のことであるし、知覚の場合もなんらかの対象が知覚的な経験を引き起こすのは当然のことであるそうです。つまり、自分の経験の因果については必然的な結合を経験していると考えられるわけです。そして、このことを自分の経験からまったく独立した対象にもわけなく拡張できるといいます。つまり、他者や物がなにかを生じさる場合も、そこに因果関係を認めることができるというわけです。たとえば、ある車が別の車を押す場合、後ろの車が前の車を押していると理解するのは当然のことであると。とはいえ、因果に関わる経験は保証されたのではなく、ほかの知覚経験と同様に間違いうるもの(錯覚)で、ほかの知覚経験と比べて劣るものではないそうです。

また、腕を動かす場合、二つの原因があるように思われます。一つはニューロンに関する原因で、もう一つは意識の志向性に関する原因です。このことを「因果の重複決定」と呼ぶそうです。これについてサールは、ひとつの完全なシステムに関して異なる2つレベルの記述があって、それは、脳の物理的なレベルでの記述と意識的なレベルでの記述だそうです。この議論は4章「意識」でサールが行っていた議論とほぼ同じ形式のものです。


ヒュームは必然的な結合は原理的に知覚されないと言っています。サールは必然的な結合は知覚されるがときどき間違えるといっています。私の考えでは、サールは次の三つのことを見逃していると思います。第一に、自分の意図的な行為における因果の経験と、何らかの物体が引き起こす因果についての知覚的な経験とでは、私たちが得られる情報に大きな違いがあるということです。自分の行為であれば、その行動に関する意図や目的、行動したときの運動指令(のコピー)、運動に関わる効果器の状態などを知ることができます。しかし、自分以外のものについてはそれらの情報は全く手に入りません。このため、自分に関する因果の経験と自分以外に関する因果の経験の間には、大きな壁があります。前者から後者への拡張は簡単にはできないと思います。第二に、知覚された因果の経験が正しいか否かが確率的であるのなら、それが本当に正しいかどうかをどのように判断すればよいかが不明です。第三に、出来事Aが出来事Bと出来事Cを引き起こすが知覚できるのはBとCのみのでBの方がCより少し先に生じる場合、誤ってBがCの原因と判断してしまうということです。これらのことから、サールの考えはヒュームの考えを覆すものではないと思います。

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2006.08.04 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

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