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マインド-心の哲学11章

11章でマインドは終わりです。テーマは「自己」です。

二元論に関係なく、重大な問題が残っている。それは「私を私たらしめるような、私にかんする事実とはなにか?」である。これはヒュームによって決着がつけられたと考えられている。その答えはこうだ。私をかたちづくるような何かを探してもそこに見いだされるのは経験群だけ、経験のほかになにか(自己)があるわけではない。

自己に関する三つの問題
1 人格の同一性
ある人が生涯をつうじてさまざまな変化を経るにもかかわらず、なお同じその人でありつづけるのは、どのような事実によるのか?

2 心理学的性質が帰属する主体
思考や感覚、それらが生じる身体の他に、さらにそれらの出来事の主体となるようななにか(私)を仮定する必要があるのだろうか?ヒュームはそれ以外に仮定する必要はないという。

3 私を私にするもの
この問いは、私の人格をつくりあげる社会的、心理的、文化的、生物学的な力に関わる問題と考えられている。

人格の同一性に固有の問題
「テセウスの船」という問いがある。これは次のような問いだ。一隻の木造船がある。時が経つにつれて、その船を構成する木材が徐々に張り替えられていく。もとの材料がすべて張り替えられても同じ船だと言えるのだろうか?
さらに、もとの船を構成する材料で同じ船をもう一隻作ったとき、どちらがオリジナルの船といえるのだろうか?
サールによれば、どちらの船をオリジナルと呼ぶかは、私たち次第だそうだ。

人格の同一性の基準
1 身体の時間的身体的な連続性
2 身体構造の相対的な時間的連続性
3 記憶
「記憶によって結びつけられた私の意識状態のシーケンスは、自分が特定の個人として存在しているという私の感覚にとって本質的なものだ」
4 人格の連続性

人格の同一性と記憶
一人称的な視点から見ると、「私は時間を通じてまさに同一の人物だ」という私の感覚は、その大部分が、過去の人生で意識に生じた出来事について、意識的な記憶をつくりだす私の能力によっている。つまり、記憶の連続性は人格の同一性にとって重要な要素なのである。

非ヒューム的な自己
ヒュームの主張は、私の自己を構成する特定の経験群(感覚たちなど)を超えたなにかを想定することは錯覚だ、というものだ。これに対してサールは、経験の継起のほかに、自己なるものを無条件に仮定しなければならないという。なぜならば、私たちはばらばらの無秩序な経験をするのではないからだ。むしろすべての経験は一つの統合された意識野の一部として経験される。さらに、時間的な意識野の連続性は、その意識の所有者自身の意識の連続性として経験される。
自己という存在者の経験を探してもなにも見つからない、という点ではヒュームは正しい。しかしそれは、そのようななんらかの存在者や形式的な原理を想定する必要がないということを意味しない。

結論
「私が私である」という感覚が存在するからといって、人格の同一性の問題が解決するわけではない。なぜなら「私が私である」という経験と、タイプ同一的な経験を他の誰もがもつ可能性があるからだ。本章は自己にかんする議論のほんのはじまりにすぎない。

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2006.08.29 | | Comments(0) | Trackback(0) | マインド-心の哲学

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